SEEDS in KYOTO
また長く空きました。
しかし前回書いたボウイ生誕祭の頃から状況全然良くなってなくて愕然!!
最近出た戦メリLINEスタンプに大島渚の「君たちはなぜ怒らないのか」というのがあるけれど、この言葉がもうずっと脳内ぐるぐるしてる。
しかし5 YEARSということで、いろいろと企画はあり、まず4月には鋤田さんのボウイ写真展「 時間〜TIME BOWIE x KYOTO x SUKITA」が京都駅ビル内の「美術館えき」にて開催。
何気なく見に行ったつもりだったのに、入ってすぐの大きなボウイに見つめられて、早くも胸がいっぱいに。1980年、京都に長く滞在していたボウイに呼ばれてやってきた鋤田さんは、ボウイの運転する車であちこちまわったらしく、たくさん写真が残っており、その場所を突き止めて、巡礼したこともあった。
あれから古川町商店街のうなぎ屋さんも閉店し、私が電話ボックスの場所を突き止めた時に目印にした向いの建物も更地になり、三条の桃源郷の店跡もなくなり、ボウイの居た京都の町並みは少しずつ変わってはいるけれど、1枚1枚の写真に「ボウイが京都に居た」ということがすごく感じられ、涙目になった。最近鋤田さんが京都で撮った写真も飾られており、こちらはわざと色を濃くしたと本人が言ってたけれど、デジタルの風合いが妙に不自然で、白黒ボウイ写真との落差が面白かった。
ありがたいことに、招待券をさらにたくさんいただいたので、会期中、まだ何度か行くぞ!と張り切っていたところ、緊急事態宣言のせいでこのmuseumが入っている伊勢丹が休業になってしまい、この展示もまだまだ会期を残したまま閉幕…涙
しかしもう1つ。
大島渚の『戦場のメリークリスマス』と『愛のコリーダ』の4K修復版、全国上映!
東京大阪ではいま映画館が休館してしまったせいで、上映が止まっているようだけれど、京都は休業補償対象にならない小さな映画館、京都シネマなので、上映中。
私は初日から少数配られるといる戦メリポストカードを狙って、敢えて大津アレックスシネマの方へ二日目に行ってみたのだけれど、とっくに配布終了していた…。そう、いまシネコンは閉まっているし、他も軒並み閉まっているせいで、ミニシアターがいつもより人が多い感じがしている。とはいえ、50%座席販売などの工夫と、そもそも黙って座ってるだけの映画館、全然OK。これでまたミニシアターまで閉まったら、私、終了…。
琵琶湖のほとりで見た戦メリは、最後のハラさんが収容されている場所が実は海の近くで、砂浜のような地面の場所で、終始波の音が聞こえていたことを、初めて強く意識させてくれた。
もう何度も見ているので(上映会も、映画館でも)、教授の化粧に笑ったり、三上寛がボウイをぼこってる!っていうか内田裕也!!とか、そーゆーとこツッコんで笑う段階は終わっていたけれど、いびつで不自然な映画だからか、いつ見ても新鮮。
大島映画の中でMy best作ではないものの、これはやはり奇跡の映画だなあ。
ボウイの役は最初ロバート・レッドフォードに打診していたみたいだけど、ちょっと想像できない。さらにたけしと教授の役は緒形拳と滝田栄に決まりそうになっていたけれど、NHK大河ドラマ『峠の群像』に出るために降りたとのこと。
(余談ながらいま少年隊にハマっている私は始動したばかりのニッキのファンクラブにもさっそく加入したのですが、昨日、その生配信ラジオで、かつてニッキも『峠の群像』に出たために、レッツヤンのサンデーズは降りた(かっちゃんはそちらに)という話をしていて、時空が繋がった。
気づいたら色々戦メリ本が集まっていたので、来週、京都シネマにもう一度見に行くまでに読もう。この映画は製作裏話がすごく面白い。まだレッツダンス前のボウイ、まだ映画監督になるなんて誰も思わなかったたけし、これが映画音楽初挑戦になった教授…当時は、出演が決まった段階、撮影中など、たけしがその裏を伝えていたんだろうなあ、というのを思うと、映画製作自体がお茶の間、ラジオリスナーなど多くの人に見守られていただろうし、いざ公開されたときもセンセーショナルだったんだろうなあ、と想像。80年代の狂騒。
戦メリを久しぶりに冷静に見て思ったのは、ハラキリが名誉の日本人は「恥」を恐れる思想を抱き、西洋人は「罪」を恐れているということがわりとハッキリ描かれていて、それはそのままヨノイとセリアズの対立になるのだけれど、その中間地点にいるのがロレンスとハラ。おそらく80年代の観客はきな臭い現在以上に、ヨノイ的な価値観を否定することが当然という雰囲気に生きていただろうし、今の私にしてもヨノイ側に共感するところは1ミリもなくて、1945年を境にひっくり返った価値観の差に改めて驚いたりもする。
まあしかしほんと変な映画なので、いろんなことを言い合えるのが面白い。
最後のシーンを描いてみた。
ホントはこのシーンの背景はこんなに広くは映らないのだけれど、キスシーンの前にセリアズが言う「ここは美しい場所だ」というセリフが今回、印象的だったので、広めに眺めてみた。
BOWIEの撒いた種(戦メリの原作タイトルは"The Seed and the Sower")は、本人が不在でも、京都でしっかり芽吹いてる。
FIVE YEARS ★
Dear David
Happy Birthday.
It's been five years.
How are you doing there?
We will be OK with YOU.
January 2021
5年前の衝撃の日に想像した未来とは全然違う2021年1月。
ヨーロッパにIvo × ナウエルさんの舞台も見に行けず、いろんなことができないでいたら、ヤクザ映画と少年隊にハマってしまいました。
Bowieは相変わらず側にいて心強いと思っているけれど、彼なら、いまの世界にどんな作品を作ったかなあ。
この5 years記念で、ミュージカル「LAZARUS」の配信があり、朝4時からのチケットを間違って買ってしまったため、ほとんど頭が働かないままで見た一度目。
今度こそ、と24時から見た二度目。
結局二度目も途中から眠気との戦いになってしまったけれど、予想していたより全然面白かった。台本読んでるだけじゃ人物像は全然分からなかった。
24時間配信が遅れたマイク・ガースンらのセレブレーションコンサートも楽しんだ。
なんて良い曲ばかり。
珠玉のパフォーマンスで聞くと、あれ?これ全部Bowieがやってたのか、とんでもないなあ、と気づく。
With DB
今年の1月は夢みたいな楽しみが詰まった2020年に戦慄していたけれど、半年経ったいま、総ては夢だったと判明。ヨーロッパに観劇に行く予定だったのもなくなり、ナウエルさん×イザベル・ユペールの来日もなくなり…
その間、現実逃避的に語学に励んだりしているけれど、現実ではがっかりなことばかりなのに、前向きな言葉ばかり口にしたり書いたりしていることにさすがに疲れてきた。でもこの気持ちをどう発散したらいいの?
という最近。
Bowieの声の明るい色を聞くと、あの笑顔が浮かんできた。
そしてちょうど前野健太さんのラジオで紹介された、詩人・絵本作家の片山玲子さんのエッセイ「ジギー・スターダスト」(『惑星』港の人、2019年)に泣かされた。
デヴィッド・ボウイの歌う声のわずか一秒の音の波の中に、わたしのやりたいことの総てがあると思ったことがある。
という部分を前野さんは朗読し、こんな風に片山さんに書かせたボウイに嫉妬する、と言っていた。
わかる。
「一秒の波」というのが凄い。永遠と瞬間をつないでる。
はかなさと永遠が結婚して生れた子どものようなひと時。大きく広く、わたしをとりまく総てのものに向かっている「好きになる」という感情。ボウイはそういう気分をかりたててくる。
これも大きくうなずいた。
この世界への好奇心。何かを面白いと思えることが嬉しい。
あの笑顔が共鳴してくれる。
このエッセイの話を友人Kにも伝えた。
Kは音楽や映画など、わたしと好きなものが似ている。
そしてこれまでもボウイに関してはいつも反応が良かったので、興味あるかな?と思ったら、感動してくれて、かなり「はまって」くれた。嬉しい。
私の新しい部屋にも変わらずにボウイコーナーは作ってあるし、まだ拡大している。
ボウイがいれば大丈夫。
Au revoir là-haut
この半年、ちっとも書いてなかったbowie noteですが、いつもBowieの音楽は側にあります。
David、お誕生日おめでとう!!
4年前の朝、『★』をやっと聞けることを楽しみにしながら、朝日新聞朝刊で告知された「DAVID BOWIE IS」展の告知に歓喜したあの日、どれだけ幸せだったか。
あれから4年たってもあなたにはもらってばかり。
Ivo van Hove演出の『ガラスの動物園』が9月に新国立劇場で上演されるというニュースを頂き本当に感謝。
誰にありがとうを言っていいのかもうよく分からないので、David、あなたに言います。
ナウエルさんを日本に呼んでくれて、ありがとう…
Bowie "constellation"
今年はBOXセットのことが聞こえてこない。
Space OddityなどのEPボックスが4つ?ほど出たからパスなのか、あるいは本当にもう終わってしまったのか…
という2019夏ですが、Bowieを聞いてます、ここ数日。
Bowieの「つなげる力・つながる力」ってホントに格別凄いと思ってるけれど、先週はホントにびっくりした。
というのは、私がこの5月からドハマリしているアルゼンチンの俳優、Nahuel Pérez Biscayart氏が、パリのオデオン座で来年春に舞台"La Ménagerie de verre(ガラスの動物園)"に出る、というニュースをよくよく辿ってみたら…
なんと、演出がIvo van Hove...
このナウエルさんことNahuel Pérez Biscayartについては、好き過ぎてもう日々、Nahuel noteで情報をまとめているのですが、まさかこんなところでBowieに繋がるとは全然想像できてなかった。
パリが3〜4月、クレルモン・フェランとアントワープでも5月に公演があるので、なんとしても観に行くつもりです。
それにしても私の特に好きなものを布置していくと、Bowieを真ん中に置くしかない、というか、Bowieがいれば私の見ている世界はホントに繋がるなあ…
DAVID BOWIE in RUSSIA
しらーーーーっと半年ぶりに書きます。
この半年、BOWIE熱は高め維持なんですが、なかなか書けないまま…
ボウイ生活を振り返ってみると…
『地球に落ちてきた男』原作を読む。
ブレヒト繋がりで「水死した娘の歌」のこと、ローザ・ルクセンブルクのことを調べようとしていたところ、イギリス映画『God's Own Country』にドハマリし、脱線。
3月)映画『ノーザンソウル』を見て、Bowieとノーザンのこと調べようと思いながら、放置。
4月)映画『ビサイドボウイ』を見る。これはとても面白かった。
本気の十連休。隣のロシアこと、ウラジオストクへ小旅行。
5月)映画『BPM ビート・パー・ミニット』にドハマリ。主演のNahuel Pérez Biscayartにもドハマリ(現在進行形)。
6月)久しぶりに七尾旅人のワンマンへ、京都磔磔。Diamond Dog Tシャツを着ていき、「David Bowie on the Moon」を聞く。
という感じでした。
特筆すべきはウラジオストク、もちろん。
元々気になっていた街だし、たぶんBowieも訪れたのではないかと推測。
ジギーツアーで横浜港を出て、シベリア鉄道でイギリスへ、という何となく情報は共有されていたけれど、調べて見ると、ちょっと微妙。
というのは横浜を出たフェリックス・ジェルジンスキー号が着いたのはウラジオストクではなくナホトカ港。
こちら↓↓↓に詳しい。
確かにナホトカからシベリア鉄道に乗るなら、車か何かで移動して、最寄り駅は「ウゴリナヤ」。
きっとウラジオストクまで一旦行っていたのではないか、という推測は当たっていて欲しい…
というのも今回私はウラジオストク国際空港からウラジオストク駅までアエロエクスプレスに約1時間だけ乗ったのだけど、これはウゴリナヤは上記のように通らない。
シベリア鉄道の端っこ、Bowieの通った線路を辿ったと信じたいので、ウラジオストクでのボウイの足跡が欲しかったのだけれど…
空港駅。これに乗りました。
列車は二重ガラス。
いかにもロシアの農村風景を抜けると、海沿いを走り、とても景色が良い。
今はウラジオストク駅はアエロエクスプレス用に専用駅を設けているけれど、シベリア鉄道の方はこの豪華な駅舎。最近改修してきれいになってしまってる。
Bowie、というかZiggy のシベリア鉄道旅は20世紀で一番ロマンチックな旅の一つに思える。
こちらの記事ではその後のBowieとロシアの関係も。
1)『The Next Day』のインスピレーションは現代ロシア史。
…確かに「I'd Rather Be High」にはナボコフが出てきた。
2)ボウイはロシアを3度訪問している。
…上記の1973年4月~5月、次はIggy Popと一緒に訪れた1976年4月。最後は96年のモスクワでのコンサート。
など。
初めてのロシアは妙にリラックスしたし(私が東欧の雰囲気に慣れているせいか)、絶対そのうち私もシベリア鉄道を横断したいと固く誓った帰り道、乗り換えのインチョン空港で聞くBowieの音楽はとても胸に染み、地球、楽しい、と謎に規模の大きなことを感じたのでした。
LAZARUS, THE MAN WHO FELL TO EARTH
今年のBOWIE WEEK(1/8と10がある週)は、映画を見に行きました。
1/9はZEPP NAMBAまで絶響上映の『ジギースターダスト』。
これ、もう寺尾さんの新訳で映画館で見るの、3度目?4度目?なのだけれど、やはりとても面白い。知ってるつもりになってる歌詞にも的確な日本語訳が流れてくるのは、もう本当に「字幕」の凄さを越えて、翻訳の凄さを噛みしめざるを得ない。
音と映像に「意味」の同時性、重要。
まだ寺尾さん字幕のついたVer.はソフト化されてないので、またこれが上映されたら、絶対また行きます。
翌1/10は出町座で『地球に落ちて来た男』。
これも何度目だろう…配給が今休止中の京都みなみ会館だけど、そろそろ期限が来るらしいけれど、たぶんまたやってくれるなら、また行く。
いずれも今回とても新鮮に見られて、今までどんだけボーーっと見てたのか?私?と腹が立つほど。
というわけで、ついに『LAZARUS』を読もうと決意。
買ったはいいけれど、英語だし、それよりも戯曲ってのがひっかかって全然読めてなかった。
しかし前書きはともかく、本編始まってすぐ戸惑う。
MICHAELって誰??
これはもしかして原作読んでないとダメなのか?
ということで、こちらもまた積ん読だった原作を読みました。
訳がとても読みやすくて、面白く読めたのだけど、結局MICHAELは出てこなかった…
メリー・ルーが名前も年齢も違う設定だったとは!!
あとあのX線を目に当てるシーン、映画ではコンタクトが張り付いてしまうだけだったのが、原作ではほぼ失明してしまってて衝撃。
でも基本的には原作を大事にしている映画だったことが判明。
語り手が章ごとに変化するので、いろいろな登場人物の内面も描かれる。
地球に落ちてきた男の孤独さは、特殊で共感できないものではない。
昨夏、生まれた甥が、当初、この星の重力にも慣れず、昼と夜があることにもまだ気づかず、周囲の様子をどれくらい分かっているのか、不自由さが凄くて、一体どこの星からお越しになりました?と思っていたのが半年たって、だんだん我々に似てきている。
私もきっと最初は宇宙人だったのが、こうしてここに馴染み過ぎてしまっただけなんだと思う。最初はどんな使命を持っていたのか、もう忘れてしまった。
Bowieがなぜ『ラザルス』という続編を作ったのか。
自分の一番の「イメージ像」になったニュートンの救済は、DAVID BOWIEの救済だったのか…
と、最初の目的に立ち戻って『ラザルス』を読もうとしているのだけど、ミュージカルゆえ、歌詞がたくさん出てきて、この文脈にちゃんと合わせて歌詞を捉え直さないといけないのかとなると易々とは読めず…。
むしろこれはBOWIEが自分の楽曲を録音物という絶対性から解放して残すための試みだったのかな、とも思えてきた。観客はきっと自分が「知ってる曲」が俳優たちによって歌われるとき、自分も歌いたくなるだろうし、「曲」は新たな文脈に置き換えられるだろう。
と、ここは難航していますが、1年以上前にTaschenからでていた写真集をようやく購入。
さすがTaschen!
このボリュームで2000円ちょっととは素晴らしい。
かわいい写真も多かった。