桂離宮はあまり先入観や予習もなく、ミーハー心で行ってみたのですが、そうして良かった。
と、井上章一の『つくられた桂離宮神話』(1986)を読み終わってつくづく思ってるところです。
「いきなり自分の恥をさらすようだが、私には桂離宮の良さがよくわからない。」と、まえがき冒頭で告白され、あとがき冒頭で「これは、桂離宮を冒涜するための書物ではない。」と述べられるように、近代以降も人々がたくさん生み出してはそれに縛られてきた「神話」から自由になるための試み。
私はあまのじゃく体質ゆえ、きっと桂離宮賛辞をたくさん読んでから行ったとしても、井上氏のような正直な感想を述べた可能性もあっただろうけれど、それでもやはり「美」を見出す努力をもっとしたかもしれなかった。
ただ、私が拝観した桂離宮というのは主に「庭」なのであって、建築の方は外から眺めるしかできなかったため、内部のことはよく分からなかったのだけれど、その外観からはとにかく「モダンだな」という印象を受けた。そしてそれこそが本書の最初の論点だった。
私はとくに建築に詳しいわけではないので、もうただ単純に桂離宮御殿の高床から、ル・コルビジェの「ピロティ」やミース・ファン・デア・ローエの「水平連続窓」を「連想」したに過ぎないのだけれど。
ミース・ファン・デア・ローエ「ファンズワース邸」
桂離宮の「発見者」とされているブルーノ・タウトをここへ連れて行ったのは上野伊三郎であって、「モダニズム」を推し進めたい人々がある意味タウトを利用した面があった。ただそれをきっかけに桂離宮の世界的な「評価」は今も「モダン」の文脈と繋げて捉えられているのだろう。観覧者はほとんど外国人ばかりだった。
もう一つ、桂離宮の印象を表すキーワードは「人工」だった。客を迎え、視覚も聴覚もコントロールしながら「楽しませる」その庭は、現代でいうところの「テーマパーク」のようなものにも思えたけれど、テーマパークと決定的に違うのは、桂離宮には「楽屋」がないことなのかもしれない。主が茶をたてたり料理を用意する場所は、庭と同時に客からよく見えるよう、縁側の方におかれていた。それほど計算しつくされた「人が作った自然」だった。
そういえば九条山のキッド邸跡を訪れたとき、そこにはもう「塀」しかなかったけれど、それだけでもなんというか、「パチモン」感というか、「イメージされた日本」感があった。もちろん、結局外国人が「日本」をやってもしょせん…ということが言いたいのではなく、それは国籍とかは関係なく(私が「日本建築」を作ろうとしたって絶対出来ない)、庭園や建築の本質は「人工」の「つくられた」ものだということであって、Bowieは「本物の日本」ではなく、「偽物」として作品に取り入れてたのではないだろうか。
オリジナルキャストが歌う『ラザルス』に入っている「No Game」では例の日本語ナレーションは英語話者によるカタコトになっていたけれど、そもそも元の「No Game」も、ナレーション自体は日本語話者がやっているけれど、その意味の分からない日本語詩や、おおげさな節回しなど、明らかに「わざとらしい」感じがある。と私は思う。
「Moss Garden」がもし「自然さ」を出したかったのなら、シンセではなく生ストリングスを使うなり、琴演奏だってリアル奏者を呼んでやるだろう。
純のCMで彼はピアノに向かってるけれど、CM曲「Crystal Japan」にピアノの音は入ってない。
というわけで『ラザルス』と『Who Can I Be Now?』がリリースされ、賑わっているBowie界隈。まだ全然全部は聞けてないけど、私は『Station to Station』のボックスを持っていなかったので(3枚組の廉価版だけ持ってる)、Harry Maslinn Mixを初めて聞いたのですが、これは面白い!!!と興奮しています。
ラザルスの方に入っていたBowieの未発表音源3曲は、なるほど、と楽しみつつも、あくまでアウトテイクというか、『★』は「完璧」だったのだ、という確認をしつつ、こうした曲はまだまだきっと彼から生み出されただろうし、そしたらまた次のアルバムも出ただろうし…と妄想してしまったり、でした。
Michael C. Hall, Original New York Cast of Lazarus - Lazarus (Live at The Arts Club)