久々のナイトウォーキングへ今年はじめて「上着」なしで出かけ、汗かいて戻ってきた。
いつのまにか季節が変わってた。
いつのまにかこんな部屋。
なんなんだよ、2016年。
いつのまにかPRINCEも居なくなって1ヶ月…
BOWIEはまあ、2016年1月号あたりは元々「表紙」だったんですよ。
アルバムが出るから。
でもな…左側の人は…
こうして見てみると、実はあまり媒体、「被ってない」。
分かり易いのは、BOWIE→レココレ、PRINCE→ミュージックマガジン。
80年代の雑誌を探して集めてても歴然と棲み分けられてる。
UNCUTとMOJOはきっとPRINCEが表紙だろう、と、すでに両方とも今月末発売号を予約してたら、UNCUTはPRINCEだけど、MOJOはボブ・ディランだった…
NOTHING COMPARE TO THEM
確かに比肩はできないけれど、比較して「違うなあ〜」というのは、たくさん出てくる。
BOWIEはとにかく誰よりも上の方から広い視界で我々を見ていたイメージ。
誰と誰が自分と作品を作れば、どんな風に面白くなるか、見えていた人、というか天使というか。
だから「Look up here, I'm in heaven」なんてのは、「予言」なんかじゃなく、ずっとそうだったんだろう、と思えてしまう。
★を見上げる時間に外を歩くと、そのどこかに絶対BOWIEは居る。
PRINCEは上じゃない。心の奥底、深く深く、潜り込んだところに居た。
彼の世界はとてつもなく広いので、違和感がないのだけれど、我々は一人の人間の中に沈潜していたのだろう。
P。そして自分自身の。
世界と自分との戦い。
世界を応援してしまうであろうBOWIEと、
自分を…
PRINCEは最初から「勝つ」ことが課題だったから。
BOWIEを識って、ああ、なんて世界は面白いのだ!!という驚き。
PRINCEを識って、ああ、一人の人間には何という可能性があるのだ!!という驚き。
この2種類の驚きは、違うようで、同じなのかもしれない。
たくさんの「トリビュートライブ」が行われていて、今日(きのう)は マドンナが登場。
もっと適任がいるだろうなど、disられてそうだけど、歴史の教科書だと思ってみたら、「マドンナがプリンスを演る」という文字列以上のインパクトはそうそうない。
映像見てみたら、PRINCEの写真が流れ出すと、妙な違和感が出て来たけど、それはでも全然彼女のせいじゃない。
PRINCEが死ぬ、ということ自体の違和感だから。
そして登場、STIEVIE WONDER。ほんと奇跡だ、彼は。
親より先に死んじゃだめだよ、PRINCE…。
笑点だって、歌丸より先に誰か死ぬとか、マジでナシですからね。