Bowieがコーラスだけを務める変な歌、『革命の歌』。
David Bowie - The Rebels The Revolutionary Song.
この歌が流れる『ジャスト・ア・ジゴロ』の監督が、『欲望』の俳優さんだって、知らんかったんですけど!!
『ジャスト・ア・ジゴロ』を初めて見たのはBowieが亡くなってからで、最初の感想は「内容がないよう〜」。
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とにかく主人公の空っぽさが不思議、というか不可解な印象だったのですが、先日、ドイツ文学者の小岸昭による『欲望する映像〜ドイツ的なるものと畸型児たちをめぐって』(駸々堂出版、1985年)という本の「ジゴロ」という章でこの映画が取り上げられていることを知り、読んでみました。
先に結論。
映画より面白かった。
私が違和感を感じたこの映画のBowieを「人々に恐怖や不安を呼び起こす畸型者」(P7)の列に連ねた解釈は、この悪評高き映画の再評価に十分過ぎるほど。「突然変異による先天的畸型者とは異なり、ドイツのある社会的状況のもとで正常からの身体的、精神的な逸脱を強いられた者たち」(P8)の「他所者(よそもの)」性。
第一次世界大戦から100年。ドイツの「戦間期」というのは多くの作品の舞台になっているのだけれど、小岸論ではまず、トーマス・マンの『魔の山』と比較して、主人公パウルが「過去の経験の結実を現在の知的な資本として活用する人間の能力」(P55)を持っていない人物として絵描かれた「時間喪失物語」としてこの映画を論じていく。時間を喪失したパウルにおいては「通過儀礼」が放棄されており、それがパロディーとして働いていることが指摘される。人間的内実が感じられない、当然成長もない、という私の初見の感想は、こうして捉え直すと確かに逆に面白い点だ。
なるほど、と唸ったのは、ホルスト・ヴェッセルとの比較。ナチスの党歌である「ホルスト・ヴェッセルの歌 (Die Fahne hoch!)」の人物。ゲッベルスに魅せられてSAに入ったHorst Wesselは、痴情のもつれにより射殺されたが、ゲッベルスによって共産党員に殺されたナチス党員、という大義に仕立てあげられ、大々的な党葬によって「英雄」にされた。
これまで当然過ぎて忘れていたけれど、「Hero(英雄)」というのは、一人で勝手になるものではなく、物語・歴史において「人々」に祭りあげられることで成立するものであり、その前提を踏まえた上での、「♪ We can be heroes, just one day」なのだ。
映画は、塹壕で傷を負ってフランスの病院で目覚めたパウルが、フランスの「英雄」と勘違いされている、というエピソードから始まり、「英雄」という言葉が皮肉に何度も繰り返される。敗戦国においては当然のことなのだけれど。ナポレオンの例を出しながら、英雄は女性で身を滅ぼすということを訴える右派の革命家たち。そこに心は投じながらも身は女に投じるパウルの非英雄的人生は偶然に終わり、必然的に革命的な人々によって「英雄の死」として利用される。
小岸氏が指摘するように、この映画は「冬」のシーンしか出て来ない。「主人公が春の中へ前進すること」も「交代すること」も阻んでいるような雪がいつも足下にある(P92)。そんな冬のベルリンに蠢くのは、「顔」をもたない群衆(P94)。そんな中で最も重要な「顔」であるパウルを演じるボウイに、小岸氏は「黙劇役者」の顔を見出す。それも、自分に降りかかる危険や恐怖に気付いていないあの顔、つまりバスター・キートンのそれ。本人はいたって本気で真剣なのに、客観的に見ると、滑稽で仕方ないあの無表情。当然Bowieは意識していたに違いない。この演技がこの映画において効果的なものとして成功しているのかどうか…。残念ながらこれは中途半端な結果に終わっていると言わざるを得ないのかもしれない。ただし『Heroes』を出した年にこの映画の撮影が始まっていたことは、我々にとっては面白い重なり。
ともかく『Baal』共々、再上映、ソフト化を希望。