これは1/8に『Blackstar』発売記念日、と思って飾ったものなのに、祭壇みたいになってしまった…
2016年は初めてリアルタイムで聞いたニューアルバムもあったし、濃い〜Bowieライフを過ごしてた気がします。
しかし2017年となると、新年早々のBOWIE IS展に始まり、ボウイよりむしろ可視化されたボウイファンたちに揉まれた感じがあって、どんどんBowieとの距離は開いていっており、この2年目の日にも、実は何の感情も持てなくなってました…。
CDプレイヤーが壊れてて(一度修理から戻ってきたけどまた壊れ、再修理中)、『A NEW CARREER IN A NEW TOWN』がほとんど聞けてないこともあるけれど(もちろん聞いた範囲ではめっっっちゃかっこよかった。ファンチャット大会しながら聞いて超楽しかった)。
そもそもずっと私の人生にいなかった(いや、いなかったと思ってたらずっとそっといたってことが重要なんだけど)人なので、いないことのほうが自然にも思えたり。
(いや、本当はBowieに限らず、ちょっといま何事においても私が熱を失ってるのが問題。ときめきよ、カムバック…)
などなどつぶやいている1月ですが、やっと話題のサイモン・クリッチリー『ボウイ』を読みました。
文章自体は読みやすいんですが、いやあ、ひっかっかるひっかかる…
んで、原書や『ダントンの死』とか買っちゃう。
でもだんだん、ひっかかってもいいし、ひっかかからなくてもいい、そういう本なんだ、ってことがわかってきました。
どっちかというと引き算でできた本。
ベンヤミン的な意味でのエッセイ的な。
最近他のファンの方々とBowieの「Nothing」と「Everything」について話していたので、ちょうどそれが最たるテーマとなっていたり、共感するところも多々。
また、「あこがれ」というテーマで1章書かれた後、次の章は「リアリティ」が出てきて、そこはもっとつなげても語れるだろうトピックだろうに、あえて分けたままにしていることとか、たくさん読者に話題を投げかけながら進んでいく。
その「あこがれ」だけど、原語では「yearn」が使われていた。
英語の「yearn」のニュアンスが私はよくわからなくて、ドイツ語だと「Sehnsucht」という「見る・会う」+「欲求」という複合語なので、逆に今は「見る・会う」ことが叶っていない状態なのかな、と想像できるのだけど、英語のyearnは私の思っている日本語の「あこがれ」という語とどこまでリンクしているだろう。
訳者の田中氏はあとがきで「愛(あこがれ)」とルビをふっていて、それもナルホドとは思う「yearn」の解釈で。
ともかく、私のあこがれはBowie本人には実はあまり向かってない。
クリッチリー氏のように、Bowieに「手を差し伸べられた」と感じられているのか、我ながら疑問だし、そのように差し伸べられたと思えるファンとBowieの関係にこそ「あこがれ」ている気がする。
ということは私はその状態ではないのか。
でもBowieがあこがれていたもの(それって世界そのもの?)には私も彼と同じ方向を向きながら、「ほんとだ、おもしろいね!!」とは確実に思えている気がする。