きのうは友人と「立誠シネマ」へ。
ここは元小学校。学祭を思い出すような教室を改造した映画館。
映画は『あえかなる部屋』。
美術作家、内藤礼を追ったドキュメンタリー。
色々な境遇の女性たちがそれぞれ彼女の作品の中に入り、その生を顕わにしていく様子が描かれ、生きること・創ること・感じること・死、などについてが映像がじんわりと語る。静かな映画なのにガツンとやられたようなインパクトを受けて、映画「室」を出る。
ロビーでiPhoneの電源を入れるとたくさんの通知。
珍しいな、と見てみるけれど、書いてあることの意味が分からない。
「デヴィッド・ボウイ氏、死亡」
顔から血の気が引くのと動悸が激しくなるのが分かる。
如何に『★』という傑作に「最後」を感じていたとしても、そこから予想される最悪の知らせは「ボウイ、引退宣言」あるいは「体調不良で入院」程度だった。
呆然と半笑いを浮かべてる私に、一緒にいた友人が困っていたので、画面を見せる。
もっと困った笑みを浮かべさせてしまう。
この日、私は久しぶりにDavid Bowie is...展のオレンジのトートバッグを提げていた。
とりあえずトイレに行こうと言って、フワフワと階段を下りる。
トイレは1階講堂の横にある。
講堂では「サルサde婚活」というイベントが執り行われているらしいが、なぜかマイケル・ジャクソンのヒット曲がメドレーで聞こえてくる。
「Rock With You」「Beat It」「Billie Jean」…
ドアの隙間から中を覗くと、ステージ上でマイケル・ジャクソンが軽やかに踊っていた。
友達と別れてから一人鴨川で泣きくれ、家に帰って泣き続け、眠れず、朝には「妖怪めぇぱんぱん」が出現。
この8日に『★』を入手するまでのドキドキ、その後聴くまでに準備を整えた儀式、聞き始めた瞬間からの驚き。興奮。幸福。
何度聞いても最後の曲「I Can't Give Everything Away」の「おしまい」感に涙ぐまされること。
そして9日、10日とその興奮を人に伝え、何人もが急いで買いに走り、そして彼等も聴いて興奮していることを知るという幸福。
絶妙過ぎるタイミングで明かされてしまった。
この『★』はBowieの死でもって完成するものだったことを。
アルバムやPVに漂う死の雰囲気は本物だったということ。
何もやり残されたものがない傑作とは、こういうものだということ。
お別れの挨拶なんていう生やさしい、我々が望んでいるものを与えてくれたなんていうことではなく、我々が想像しているものを裏切る、これまでで最大の「David Bowie」のサプライズだったということ。
かつてこんな風に自分の「死」すら作品にすることができた人間がいたとは思えない。
なんなら彼は余命宣告を受けた時に、一通り人間らしい動揺を経た後、「チャンス」とほくそ笑んだのではないか。
してやられました。
まずは見事過ぎる「David Bowie」の結末にショックに涙。
何が悲しいのか。
私はBowieに会ったこともないし、ライブすら見たことがない。
2年2ヶ月前にファンだと自覚して以降、どうせいつも生身のBowieは不在だった。
これからも変わらず彼の音楽は側にある。
では何が?
もうこれからは新曲を楽しみにできないこと?
こんな傑作の続きをまだ欲しがっていた?
いやいや、『★』は死ぬほど傑作。足りないものは何もない。
と、これまでと変わらぬ自分とBowieとの明日からの日々を想像して力が抜けてくれそうになった時に、「デヴィッド・ボウイ、死亡」という見出し文字を見てしまうと思考が止まる。
Bowieの写真の前にキャンドルが灯され、花が手向けられている写真なんて想像したこともなかった。
え(笑)? Bowieに??こんな美しい人に花って洒落にもならん。笑
…ああ、死んだのか…
死んだ??Bowieが??
ボウイって死ぬの??
ということを頭の中でまだグルグル繰り返している。
誕生日に公開された写真は「はっはー!驚いただろ!」って大声で笑ってた。
なぜ発売日にアルバム全曲がYoutubeで公開されたのか。
この音楽は全ての人に届けないといけないから。
ロック・スターが世界に「革命」を起こすために。
できるだけ多くの人がその音楽を享受する方法が、音楽家たちを悩ませてもいるはずのYoutubeの利用。アルバムがほのめかしているとされているISISのメディア利用を思えば、この作品はそうした黒い★たちへの対抗作だとも思える。
『★』に込められたものをできるだけたくさんの人が受け止め、考え始めること。
私も考えている。自分がどう動かないといけないか。
死ぬ気で生きないといけない。