一ヶ月ほど何も書けていない間に、このbowie noteの1周年が近づいてきました。
早っ。
でもまだまだbowieの海は広くて深い。まだまだ。
このblog以外に、実際に私のBowie Noteというものが存在しています。
歌詞をプリントして貼り、メモしていくためのもので、全て書き込んでいるわけではないけれど、既に4冊。まだ倍くらいにはなるかな。おそらく。
モレスキンのカイエ。
中はこんな感じ。
まあ手帖や電子辞書、ケータイもこんなことになってます。
さて、2015年になってからのBowie研究。あまり捗っていないけれど、一つだけ、「I'd Rather Be High」について調べていました。
以前、ココで歌詞の翻訳を試みていたけれど、ちゃんとキーワードを調べてみると、面白いことが判明。
冒頭、歌詞を見ていないときには聴き取れていなかった語、「ナボコフ」そして「グルーネヴァルト」。このGrunewald(グルーネヴァルト)は、Grünewald(グリューネヴァルト)ではないところがポイントで、つまりそれはベルリンの西に広がる地区の名前。
ナボコフ一家はロシア革命を逃れ、1922年から1937年までをベルリンで過ごしていたけれど、当時、同じくロシアからは多くの作家が亡命してきていたらしく、このグルーネヴァルトは彼らの憩いの場所だった様子。
>ロシア人はベルリンとパリにーいわば私たちの首都だった−こじんまりとした植民地を作っていた。私たちの文化係数は、周囲の外国人たちの当然もっと濃度の薄い社会の文化水準をはるかに抜いていた。私たちは植民地のなかで自分たちだけで暮らしていた。(ウラジミール・ナボコフ『ナボコフ自伝 ー記憶よ、語れ』大津栄一郎 訳、晶文社、1979年、225頁)
>国外に逃亡したグループは自分たちがめざすものをなんの心配もなく追求できた。ときとすると、精神の完全な自由を享受しているような、そしてそれは完全な真空のなかで生きているからのような気持ちになった。ベルリン、パリ、その他の都市にはたしかにロシア語の本や雑誌をかなり大量に出版できるだけの多数の立派な読者がいた。(前掲書、228頁、下線引用者)
>ベルリンのグリューネヴァルト(ママ)の湖をとりまく松林はたいへん人気があったが、私たちは滅多に訪れなかった。(…)もう少し湖に近づくと、夏には、なかでも日曜日には、日焼けした裸かの体があたり一面を占領していた。着物と来ているのはりすとある種の毛虫だけだった。(前掲書250〜251頁、下線引用者)
ベルリンの人々も他のヨーロッパの内陸都市と同じように、湖や池の砂浜で服を脱ぎ、太陽の光を謳歌している。このグルーネヴァルトは閑静な高級住宅街であり、その森には大きな川、湖がある。
>ベルリンの公園といえば、中心部にあるティアガルテンがまず思い浮かぶが、亡命者たちの息抜きの場としては、むしろグルーネヴァルトの方が重要だった。ベルリンの南西部に位置するグルーネヴァルトは、高級住宅地としても知られ、金持ちの広大な一戸建てが建ち並んでいたが(ナボコフの『キング、クイーンそしてジャック』に登場する、キングこと商店経営者ドライヤーの家もここにある)、さらに林の奥に進むと小さな湖があり、周囲の砂浜は、日光浴を楽しむ人々でにぎわっていた(『賜物』の主人公フョードルは、泳ぎの後で衣服を盗まれたことに気づき、水泳パンツ姿で走って帰るはめになる)。北欧ロシアで育った人びとは一般に太陽の光に貪欲だが、故郷ロシアの森を思い出させるグルーネヴァルトは、健康のためにも欠くことのできないくつろぎの場だった。(諌早勇一『ロシア人たちのベルリン 革命と大量亡命の時代』東洋書店、2014年、87-89頁、下線引用者)
>路面電車を乗り換えながら、気が進まない家庭教師先をまわる主人公や、グルーネヴァルトの湖のまわりで日光浴する主人公の姿には、明らかにナボコフ自身の体験が投影されているし、(…)『賜物』という作品は、ナボコフがロシア文学に捧げたオマージュであると同時に、ベルリン生活の思い出に捧げたオマージュでもあるのだろう。(前掲書、176-177頁、下線引用者)
「I'd Rather Be High」の冒頭の歌詞、
ナボコフは
グルーネヴァルトのビーチの上、
輝くむき出しの姿で太陽の舌に舐められているのだろう
いかにも作家、という様子で
ここには、1920年代のベルリンにおける亡命ロシア人作家達の姿が描かれている。
↑ベルリンでテニスをするナボコフ(左から2人目)
↑蝶を探して森を駆け回るナボコフ夫妻(この写真はベルリンではない)
さらに、ナボコフの『賜物』を参照してみると、
>ベルリンの住人たちは〈グルーネヴァルト〉という概念を、日曜日の単純な印象(紙屑、ピクニックの群衆)から作り上げていたが、ぼくはこの森の世界のイメージを自分自身の持つ手段によって、いわばその水準よりも高いところへ持ち上げたのだった。(…)ぼくは服を脱いで裸になり、首の下に不要の水泳パンツを当て、膝かけの上にあお向けに寝転んだ。全身にブロンズを浴びせたように日焼けし、自然な色が残っているのは踵と手のひらと目の周りに放射状に延びる皺だけ、というありさまだった(…)裸と普通結びつく決まり悪さは、自分の身体が無防備に白いという自覚から来るもので、この白さは周囲の世界の色合いとのつながりをとっくの昔に失っていて、それゆえ世界とは人工的な不調和に陥っているのだ。しかし、太陽の作用が欠陥を埋め合わせ、私たちを裸の権利において自然と平等なものにしてくれ、すでに日焼けした体は恥ずかしさを感じない。(…)
陽光が突然に襲いかかってきた。太陽は大きく滑らかな舌でぼくの体をくまなく舐め回した。次第にぼくは灼熱してきて透き通り、体中に炎を満たされて、炎が存在するからこそ自分も存在しているのだと感じるようになった。文学の著作が異国の言葉に翻訳されるように、ぼくも太陽に翻訳された。(ウラジミール・ナボコフ『賜物』沼野充義 訳、河出書房新社、2010年、528-529頁、下線引用者)
まさにBowieの歌詞の元ネタを発見。
高緯度に位置するヨーロッパの人々にとって、太陽は憧れの存在。
「テムズ川は黒く、タワーは陰っている」ので、こうした自然との一体化に力を与えてくれる太陽は、生の力そのものであろう。さらに不安定な生存基盤でありながら「真空状態」で自分たちの言語によって執筆していた亡命作家たちが、肉体的に生を体感できる、そうした貴重な時間をもたらしてくれるものが太陽であった。
しかしこの歌にはもう一つの太陽が描かれている。太陽という言葉こそ用いられていないが、「カイロ」の砂漠で戦争に従事している17歳の語り手を、太陽はまちがいなく焼き尽くすように照らしているはず。この過酷な環境のなかで語り手は
「それなら僕は高みへ行きたい
いや、飛んでいたい
いや、むしろ死んでしまいたいし、こんな考えから抜け出たい
砂の中、こんな男達に混じって銃の訓練なんてしてないで
高く飛びたい」
と、まるで「蠟で固めた鳥の羽」で太陽へ向かって飛び立ち、そして墜落して命を落としたギリシャの若者、イカロスの如く、「いっそ」太陽へと飛翔したい、と願っている。その逃避はおそらく死への道行きである。
I'd Rather Be High - Venetian Mix (Wasted Edit ...
すなわち、この曲では生と死の両方のイメージが太陽に重ねられている。
もちろんボウイと言えば、宇宙、異星人のイメージがあり、「star」や「mars」、あるいは「moon」といった天体名がまず思い出され、「sun」という語は彼の「異星人期」にはあまり用いられていないが(額に描かれてはいたけれど)、初期の、サイケデリックでヒッピーチックな雰囲気を残した歌詞にはよく登場する。ボウイの初期の曲「Memory of a free festival」で繰り返される印象的な歌詞「The Sun Machine is Coming Down, and We're Gonna Have a Party」。地上へと太陽を呼び、パーティーをしよう、と「仲間」に「呼びかけ」ている。
starやmarsなどと異なり、sunとはまず肉眼で見ることもままならぬし、決して辿りつけない場所、存在であり、「高いところ」にあるとイメージされるように、「地上」の視点から望まれるものだ。他の天体ならば見つめ、たとえばそこにLIFEはあるのか?など思いを馳せ、自分を投影することもできるけれど、太陽は圧倒的な力で「我々」の生活を支配している。可視化できる唯一の神的存在、太陽は個人よりも、集団として対峙する存在なのだろう。そうした太陽に対し、飛翔していこうとする17歳の若者の姿を66歳のBowieが書いたのは、とても面白いし、Bowieと太陽というテーマはまた改めて考えてみたい。
Memory Of A Free Festival-by David Bowie - YouTube