bowie note

David Bowieをキーワードにあれこれたどってみるノート。

At night a lilac sky, a drunken Baal

ベルトルト・ブレヒト(Bertolt Brecht, 1898-1956)

 

ブロードウェイで舞台《エレファント・マン》に出演後、1981年からBowieが挑んだのが、ブレヒトの最初の戯曲《バール》(1918/1919)のBBCによるドラマ化。

 

「バール」というのは主人公である吟遊詩人の名前。

由来はセム系の神である「BAAL」。この戦いの神バールは、それへの信仰を警戒した旧約・新約聖書では嫌われ、キリスト教社会においては「異教の神」の象徴、「悪魔」の役回りになっていった。

 

Bowieがこの「バール」を演じたドラマはこちらで少し見られます。字幕なくて辛いけれど。


Bowie in Bertold Brecht's "Baal" Part 3/3

 

汚い格好のバールはヘビ革(!)のバンジョーみたいな楽器(何て言うのかな)を弾きながら、酒場でいかがわしい歌を歌い、女の人を次々ひっかけておもちかえりして、作曲家の男友達とデキてんじゃないかと臭わせながら、最終的にはのたれ死ぬ。

この不潔で不遜な男を演じるBowieは、きれいなスーツ姿の時より、ある意味魅力的。

(余談:以前、菊地成孔がきれいな女性に会うときは無精髭を蓄えてできるだけ汚い自分になるのが楽しい、というようなことを書いていたのを思い出した。)

 

バールは徹底的に歯向かい、刃向かう男。自分自身にすら。

 

「詩人バールは世界を、社会を、人間たちを否定する。自分自身をも否定する。彼が認めるのは肉体のみである。表現主義の天空に翔けのぼる精神と対置された肉体、死んで森の中に放置され、腐敗していく肉体、身投げして川の流れに運ばれ、〈藻や水草にからみつかれる〉肉体である。」(「若きブレヒト論 —教育劇をめぐって—」内尾一美、長崎大学教養学部紀要、人文科学、1969年、91頁)

 

ブレヒトの原作を読むと、「空」と「ひざ」いう語が頻出することが気になった。

まるでバールは母なる宇宙、「空」から無慈悲にもこの地上に産み落とされたかのようで、常に下向きの大きな圧力のもとで生きているので、そこでまっすぐ立って歩いて生きていくには、肉体が、とくにその「ひざ」が重要なようなのだ。 

ブレヒト戯曲全集〈第1巻〉

ブレヒト戯曲全集〈第1巻〉

 

 

さて、このドラマで歌われた曲はその後、5曲入りのEP「David Bowie in Bertolt Brecht’s Baal」として発売。(未CD化。iTunesStoreにアリ。)

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1. Baal's Hymn (Der Choral vom großen Baal / 偉大なバールの讃歌)

2. Remembering Marie A (Erinnerung an die Marie A.  / マリー・Aの思い出)

3. Ballad of the Adventurers (Die Ballade vom den Abenteurern / 冒険者たちのバラード)

4. The Drowned Girl (Die Ballade vom ertrunkenen Mädchen / 水死した娘のバラード)

5. The Dirty Song (Dirty Song / ダーティー・ソング)

 

この5曲のうち、4曲目は後にクルト・ヴァイルが作曲したもの(《バール》に出てくる詩だけれど、ヴァイルがブレヒトに初めて出会ったのは1927年なので、初演時はまだこのメロディではなかったと思われる)。1曲目と3曲目はブレヒト自身の作曲で、2曲目はブレヒトによる民謡の編曲。

ブレヒトは劇作家になる前は、ヴェーデキントに憧れ、自作の詩をギターで歌う「シンガーソングライター」だった。それは個人の作詞作曲表現というよりは「集団創作」されたもので、主に3つの現場で作られた。1つは「自分の屋根裏部屋」、2つめは「レヒ河畔」、3つめは「酒場」。

(「シンガーソングライター、ブレヒト —若き詩人とサブカルチャー」市川明、『ブレヒト 詩とソング』市川明編、花伝社、2008年、11-50頁)

 

この「ブレヒトが歌を披露した場所」が注目に値する。なぜなら「そこに、文字通り音楽の社会的ステータスが示されているからだ。音楽はどの音も〈われわれ〉を意味し集団的な制作と受容を要求する、という有名なテオドーア・W・アドルノのテーゼがブレヒトにおいて実践的に試されている」。

(「〈人前でギターを弾くこともあるからさ〉 —音楽重視のブレヒト研究への提言」ヨアヒム・ルケージー、森川進一郎 訳、『ブレヒト 詩とソング』市川明編、花伝社、2008年、53-68頁)

 

ブレヒトの歌のスタイルには、「ベンケル・ゼンガー(大道歌手)」の伝統があると言える。それは中世から19世紀の半ばまで存在した、街頭で「台(ベンケル)」に載って手回しオルガンなどの楽器伴奏で恐ろしい事件などを民衆に歌い伝えてきた人々。

(参:「ベンケルザングの見取り図」秋葉裕一、1998年→PDF)

 

ブレヒト自身の歌う「Die Moritat von Mackie Messer(マック・ザ・ナイフ)」


Bertol Brecht - 'Mack the Knife'

 

こうした「ソング」を後々、ヴァイルらと組むことで自身の劇作の要としていったブレヒトは、処女作《バール》では、主人公が街のシンガー・ソング・ライターそのものとして描いており、「ソング」の「原型」を伝えている。

 

《バール》には巷の詩人であるバールが、詩を「出版」するよう、ブルジョワ知識人たちに勧められるシーンがあるが、彼の歌・詩はそういう存在ではない。バールの歌は耳に心地よく響くためのものではなく、むしろ聞く者を恐れさせる。彼はまだこの汚い世界にどうやって挑んでいいか分からない。ただ、この川に流される死体になるまでは、この重苦しい暗い場所から明るい「外」へ出るまで藻掻いているだけ。

 

 

《バール》は1970年にあのファスビンダー(!)がバール役を演じて映画化されており、最近、YouTubeに全編アップされてることを発見。時代設定が現代になっているのが面白そう(まだちゃんと見てない)。

 

 


Fassbinder, 1992 Vostfr