ME !!!!!!
1ヶ月以上放置してましたが、11月はレッドな桃月間で、岡村ちゃんのツアーの3/5に付いてってたのでご勘弁…
さてBOWIE、相変わらずベルリン箱日本盤は発売日決まらず、まだ聞けてません。
年内に出るかしらん。
この秋、唯一って感じのイベントは先日の『ジギースターダスト』の絶響上映でした。
映画館で見るのは二度目。今回はZepp Nambaってことで大音量仕様。
大音量だとやっぱりバンドの格好良さを再確認。
これまでこの絶響上映は『Sign 'O' The Times』と『Purple Rain』を見に同じくZeppに行ったのだけど、ぜんぜん集客が違う。プリンスのときはなんて少なかったんだろう…
Trailer: Ziggy Stardust and The Spiders From Mars
ほぼ満席で映画を観た後は先輩ファンの方々とおしゃべり。
かつての上映に比べていかにこのデジタルリマスターの音と映像が綺麗かってことや、はじめて見たときの感想など聞けて面白い。
あとわたしも気になってたことを質問。
Ziggyの最初の「うーー」ってまだBowie、マイクから遠い段階から聞こえてるけどなぜ?とか、
Rock'n'Roll Suicideの前のBowieの告知でバンドメンバーは解散を知った、と聞いてたけど、あんま驚いてるように見えずちゃんと演奏してるんだけど、なぜ?など。
で、みんな本当何回も何回も見てるので、観客のこともよく覚えてるよね、という話に。
そう、いつも気になってたけど、今回改めて、このコンサート会場の観客の属性が似通ってることを再確認。年齢・性別・人種。
10代の白人女性ばっかり映る。男性もいるけれど。
しかし黒人、アジア人はいない。
これ、今の多民族シティLONDONを思うと、結構異色な空間なんじゃないかなあ。
音楽や舞台の研究でも、もっとも調査が難しいのは「観客は誰なのか」ってこと。
何百年か前のものも難しいけれど、70年代だって、そして今だって結構データとして残すことは難しい。
私がこうした年齢・性別・人種に分類されてカウントされても、自分でそれをちゃんと自分と思えるかな…精神年齢や趣味、その日の気分は数値化されないし。
で、Ziggy映画の陶酔的な白人ティーンエイジャーたちの姿。
私たちが憧れてきたのはもちろんBowie本人ではあるけれどこのファンたちの姿でもあるなあ、と再確認。
タイミングよく口々に「ME!!!!」と叫び、それを本人にも面白がられるファンたち。
羨ましい。こんなこと、私たち(日本でライブを見る日本人)はできたのかな。
Princeにハマった頃、彼はPiano & Microphoneツアー中。
こっそり撮られた映像では、弾き語りをするPrinceに興奮した観客たちが、Princeの歌に対して叫び、歌い、反応を返し続けてた。
それを観た私は正直自信がなくなったのでした。
まだ有名曲ですら歌詞を覚えてないのに、こんな全員参加型のライブに行って、どんな気分になるんだろうか、と。こんないちいち「Oh〜〜!!」みたいな声、出せるかな、と。
オーストラリアのチケットを結局買わなかった第一の理由は実はこれだった。
先日の岡村ちゃんライブ千秋楽名古屋。
岡村ちゃんのお客は老若男女入り混じっていて、熱狂的だけど、「絶対(日本の)常識の範囲」ではあるんだけど、この日は前方によく叫ぶ男性が。姿は見えなかったけれど。
「陶酔」に憧れる私としては「イケイケ!もっとやれ!」と心中応援。
いや、応援されたのはむしろ私。
気分上がって久々に♡の目で没入。
私、ズーーーーット笑顔だったはず。
しかし案の定、終演後のTwitterなどの感想でこの男性は批判対象に。
「イケナイコトカイ」の岡村ちゃんの即興部分で声を出すなんてもっての他!!みたいな。
そうかなーー、私はすごくあれよかったのになーーー。
私にはBowieが「ME!」を喜び、Princeが弾き語りへの反応を喜んでいるあの表情を、岡村ちゃんもしているような気がしたのでした。
Shining 80s
Bowie Box第三弾の日本盤がまた発売延期、というか発売日未定、に変更になり、注文していたタワレコオンラインからは「いったんキャンセルします」と連絡があり、いつになるやら〜〜〜〜
って感じですが、実は最近はこのベルリン期よりも80年代ボウイがツボなので、来年も箱出してくれるなら、むしろそっちが楽しみ!になってきてます。
先日、京都木屋町にある元「立誠小学校」が改築されるということで、大きなレコード市があり、そこでゲットしたものが総じて80sBOWIEだったことも原因。
80年代の音源こそ、最初のCD化がテキトーなのか、アナログで聞いたときの「こんなに良かったのか!」という発見がでかい。
さらに80年代を最初から最後まで完全に幸せな子供として過ごしたので、90年代になっても延々と「80年代はよかったなあ…」と思い続けていた私に、80年代がダサかったことはなく、ひたすらキラキラに見えて、たまらない…
(正直『Tonight』は好きな曲がないのだけど)、『Never Let Me Down』は最初から好き。とくに「Shining Star(Makin' My Love)」が好き。一聴した時から、妙な「私に近しい臭い」を嗅ぎ取っていた。
これは実はミッキー・ロークが途中、「ラップ」で参加しているというびっくり曲。
Shining Star (Makin' My Love) - Never Let Me Down [1987] - David Bowie
こちらはライブリハーサル風景(13:30頃〜)
で、この曲は、「実は」が続くのですが、「実は」プリンスを意識して書かれたものだったよう。ちなみにこのアルバムに収録の「Zeroes」という曲の歌詞には「Little Red Corvette」も出てくる。
しかし影響は一方的なではない。
かの『Purple Rain』はおそらくジギー・スターダストをその構想のヒントに持っていた。
参考:
strongerthanparadise.blog.fc2.com
さらにとくにこの1987年、彼等はライバルでもあった。
Bowieは「Glass Spiderツアー」のダンサーとして"Cat"を所望していたけれど、彼女はまったく同時期におこなわれたPrinceの「Sign 'O' The Time」ツアーの方へ参加。
参考:
strongerthanparadise.blog.fc2.com
ということに思いを馳せたのは、昨日たまたまマイラブ岡村靖幸の1987年7月21日発売のシングル「Dog Days」が「Shining Star(Making' Love)」(1987年4月18日発売のアルバム『Never Let Me Down』に収録)に似てる!!と気付いたことがきっかけ。
この二つの曲が直接似ているんじゃなくて、そう、「PRINCE」で繋がっていることは言わずもがな。
RAW POWER
3度目の正直、ならぬ正伝寺。
ついに月見に行って参りました!
夕焼けで赤い空にぽっかり白い月。
まだ比叡山の近くです。
縁側に座ってみる。
だんだん昇っていく。
飛行機雲が横切る。
David Bowie – Crystal Japan – Promo - 1980
たくさんのカメラを持ったお客が来ており、私も撮ってみたものの…
私の腕ではあの明るさは全然捕らえられなかったので、諦めてシャーペンでノートにスケッチ。
ちゃんと色鉛筆持ち歩いてればよかった。相棒。
素敵な月見の前週は、ようやくジャームッシュの新作2本を見ました。
『パターソン』のことは思い出しては胸がいっぱいになるってのがまだ続いてる。
ユリイカのジャームッシュ特集も前半はなかなかで、かなり涙ぐんで読んだ(後半はそうでもなかった)。
そしてイギー。
なんてチャーミングなイギー。
なんて素晴らしいThe Stooges!!
たくさんの名言が飛び出した。
作詞のルールも驚いたし、オトナ(ビジネス)や大人(アート)に目を付けられてもヌルリ!ジャンプ!と飛んで逃げるイギー。
The Stoogesはどのアルバムも大好きだ。
本作はThe Stoogesの映画なので、その時代のBowieは「おとな」仲間に見えた。
Revolutionary
Bowieがコーラスだけを務める変な歌、『革命の歌』。
David Bowie - The Rebels The Revolutionary Song.
この歌が流れる『ジャスト・ア・ジゴロ』の監督が、『欲望』の俳優さんだって、知らんかったんですけど!!
『ジャスト・ア・ジゴロ』を初めて見たのはBowieが亡くなってからで、最初の感想は「内容がないよう〜」。
→ ★
とにかく主人公の空っぽさが不思議、というか不可解な印象だったのですが、先日、ドイツ文学者の小岸昭による『欲望する映像〜ドイツ的なるものと畸型児たちをめぐって』(駸々堂出版、1985年)という本の「ジゴロ」という章でこの映画が取り上げられていることを知り、読んでみました。
先に結論。
映画より面白かった。
私が違和感を感じたこの映画のBowieを「人々に恐怖や不安を呼び起こす畸型者」(P7)の列に連ねた解釈は、この悪評高き映画の再評価に十分過ぎるほど。「突然変異による先天的畸型者とは異なり、ドイツのある社会的状況のもとで正常からの身体的、精神的な逸脱を強いられた者たち」(P8)の「他所者(よそもの)」性。
第一次世界大戦から100年。ドイツの「戦間期」というのは多くの作品の舞台になっているのだけれど、小岸論ではまず、トーマス・マンの『魔の山』と比較して、主人公パウルが「過去の経験の結実を現在の知的な資本として活用する人間の能力」(P55)を持っていない人物として絵描かれた「時間喪失物語」としてこの映画を論じていく。時間を喪失したパウルにおいては「通過儀礼」が放棄されており、それがパロディーとして働いていることが指摘される。人間的内実が感じられない、当然成長もない、という私の初見の感想は、こうして捉え直すと確かに逆に面白い点だ。
なるほど、と唸ったのは、ホルスト・ヴェッセルとの比較。ナチスの党歌である「ホルスト・ヴェッセルの歌 (Die Fahne hoch!)」の人物。ゲッベルスに魅せられてSAに入ったHorst Wesselは、痴情のもつれにより射殺されたが、ゲッベルスによって共産党員に殺されたナチス党員、という大義に仕立てあげられ、大々的な党葬によって「英雄」にされた。
これまで当然過ぎて忘れていたけれど、「Hero(英雄)」というのは、一人で勝手になるものではなく、物語・歴史において「人々」に祭りあげられることで成立するものであり、その前提を踏まえた上での、「♪ We can be heroes, just one day」なのだ。
映画は、塹壕で傷を負ってフランスの病院で目覚めたパウルが、フランスの「英雄」と勘違いされている、というエピソードから始まり、「英雄」という言葉が皮肉に何度も繰り返される。敗戦国においては当然のことなのだけれど。ナポレオンの例を出しながら、英雄は女性で身を滅ぼすということを訴える右派の革命家たち。そこに心は投じながらも身は女に投じるパウルの非英雄的人生は偶然に終わり、必然的に革命的な人々によって「英雄の死」として利用される。
小岸氏が指摘するように、この映画は「冬」のシーンしか出て来ない。「主人公が春の中へ前進すること」も「交代すること」も阻んでいるような雪がいつも足下にある(P92)。そんな冬のベルリンに蠢くのは、「顔」をもたない群衆(P94)。そんな中で最も重要な「顔」であるパウルを演じるボウイに、小岸氏は「黙劇役者」の顔を見出す。それも、自分に降りかかる危険や恐怖に気付いていないあの顔、つまりバスター・キートンのそれ。本人はいたって本気で真剣なのに、客観的に見ると、滑稽で仕方ないあの無表情。当然Bowieは意識していたに違いない。この演技がこの映画において効果的なものとして成功しているのかどうか…。残念ながらこれは中途半端な結果に終わっていると言わざるを得ないのかもしれない。ただし『Heroes』を出した年にこの映画の撮影が始まっていたことは、我々にとっては面白い重なり。
ともかく『Baal』共々、再上映、ソフト化を希望。
Bolan☆ミ
B & B
今日、9月16日はMarc Bolanの40回目の命日だそうで、もうすぐ、9月30日は70回目の誕生日なのだそうで、祭りしてます。
最後のアルバム、ちゃんと聞いてなかったので、ネットで聞いてるけど、良いなあ、これ…と注文したり。祭り。
T. Rex - Dandy In The Underworld (Full Album) 1977
初期のスカスカしたTyranosaurus Rexのほうが好きと思ってたけど、後期のディスコ系も良いんすね!
…
ふふふ…
ばーん。
Bolanの葬式のBowieは、見てはいけないBowieを見てしまった感じであまりに辛い写真。
私にとってはレノンやフレディと同様に、存在を知った時にはとっくに死んでた人なのですが、マーク兄さん、あなたは40年経ってもそんなリスナーのハートをキラキラの音でまいらせてますぜ☆
T.REX - METAL GURU(STUDIO LIVE)
David Bowie's lost 1973 Top of the Pops performance of The Jean Genie
Guiding Star with NO PLAN
嗚呼、ついに8月は何も書けずに終わってました。
夏が終わってました。
私、夏の間自分の仕事全然できなかったわ〜人の手伝いとかばっかりで…って友に言ったら、仕事ってそういうもんなんちゃう?
そうかも。
私の人生においても格別にキャラの濃い登場人物たちに振り回され、そして彼等が去って行ったら、Where Am I Now?って気分だけが残ったわけです。
Bowieのあの曲、なんで「We」なんだろ。
でも私の嫌いな「We」じゃない。(オレをお前と一緒にすんな!って感じのweの歌が嫌いです)
2人称みたいなWeに思える。つまり私(You)と歌い手と。
ともかく。
音楽聞かず、友とも遊ばずに過ごした夏。
この週末ようやく時間が持てて、音楽を友と存分に味わったら、自分がどこにいるのか、だいぶ見えてきた。
ホント最近秋らしく空気が澄んでるからよく見えるんだ。
音楽は友達みたいなもんで、友達は音楽みたいなもんで、
なくても生存可能だけど、だからこそ、なくちゃ生存不可能で。
久しぶりに聞くBowieの声はホッとした。
私はBowieのことを考えているときは、とても気持ちが良い。
ほんとは「ジャスト・ア・ジゴロ」のことなんて書こうと思って用意していたけど、まだ全然。
最近私が為し得たBowie活動は一つだけじゃないかな。
5月に、今年好きになった新喜劇のアキ(水玉れっぷう隊)に、「No Plan」のTシャツをプレゼントしたのだけど、それを先日着ている写真をTwitterにあげてくれていたこと。
嬉しい!!!!!!!!!!
アキがよく私服で★(ブラックスター)柄のものを身につけているので、これはBowieと関連させたいなあ…と思っていたところ、『No Plan』のジャケットになった「Guiding Star」のTシャツがええんじゃなかろうか、と「David Bowie is」会期後半に訪れた友人に頼んで、買って来てもらい、ある公演の後、手渡しました。 ちゃんと導く星の意味をしたためて。
あの日から数ヶ月。
普段の服は相変わらず白いTシャツが多く、やっぱり黒は着ないのかな〜〜って思っていたところ、今月のアキ座長公演の練習風景で着用してくれているのを発見!!
稽古稽古稽古‼
— 水玉れっぷう隊アキ(吉本新喜劇) (@mizutamareppu) 2017年9月6日
昨日は祇園花月終わり、太秦京都撮影所へ🏃
そう、僕が19歳の時に生まれて初めてこの世界に飛び込んだ場所✨📷
そんな思い出深い場所で殺陣の稽古‼👊
そのあとは京都伏見桃山の方にダンスの稽古‼📷👊
そう、エンタメ新喜劇のために👊
…エンタメ新喜劇、お楽しみに😊📷 pic.twitter.com/Iv4PM0db7E
わお!!!自分がリーダーになる特別な時に着てくれてる!
私のメッセージは伝わってた!!
と大変嬉しかったのでした。
Erinnerungsräume
アライダ・アスマン著『想起の空間〜文化的記憶の形態と変遷』を読みました。
*注:リンクはamazonに貼りましたが、水声社の本はamazonでは基本買えません。
英独文学、文化史学のアライダ・アスマンが、夫のヤン・アスマンとともに、1980年代末に提唱した「文化的記憶」というコンセプトは、そもそもは1920年代に社会学者のアルヴァックスが提唱した「集合的記憶」という概念をさらに進めたもの。
本書はインターネット誕生以前までの「文化的記憶」の在り方を「蓄積的記憶」と「機能的記憶」という二つの様態から説明したもの。
…と、「用語」を並べ立てても説明にはなっていませんが、簡単に言うと、「記憶」という変化を伴い、再構築され、忘却もされうる不確かな概念の再評価です。
この1冊を要約することは私の手に余るのですが、ともかく、これを読んでから「David Bowie is」展のことを考えなおしてみると、大変面白く、さらにこの本では書かれていない先のことまでが見えてくるのではないか、とそんな予感もしました。
何万点という自分の「痕跡」を収集し、アーカイヴし続けたBowie、そしてそこから「David Bowie」を再構築すべく、選別して展示したV&A ミュージアム、さらにそれを商業としても成立させた各国の主催者…
この展覧会は確かに「想起」を促すも、そこに「ノスタルジー」はない。
だからといって、そこに置かれたモノは、「現在」生まれたばかりのものではなく、何十年も前に生まれて、色々な評価を経てきたモノ。ある意味「安心」して「鑑賞」できるもの。
「本物」であることがファンにとっては一番感動する点であるはずだけど、一つ一つ証明されているわけではなく、膨大に存在する「そこにはないもの」によって、可変的な展示であることを予感させつつ、時間軸を分解して、どこも同時にアクセス可能にする構成になっている。
あの口紅がぬぐわれたティッシュは本物なのだろうか。
ジョン・レノンがグラム・ロックのことを「口紅を塗ったロックンロール」と言った、というエピソードを知る者にとっては、その口紅が「ぬぐい取られた」痕跡、というのは、単なるその行為をはるかに超える意味を持つものなのだから。
そのティッシュを、そうした意味を含めて保管していたのはBowieなのか、そうした意味を嗅ぎ取り、暗示的に展示したのはV&Aのキュレーターなのか、そしてそういう意味を読み取って、過去をぬぐい去り続け、さらにそれを保管し続けたBowie像を共有する観覧客。私を含む共犯者たちは、こうして一つの記憶を作った。
もちろんこの痕跡には他の解釈も可能だし、なんならそんなティッシュはそもそも存在しなかったのかもしれない。いかにも有りそうなものとして創作されて展示されたのかもしれない。この嘘は、「事実」の説明のための「嘘」かもしれない。
音楽が現場でしか共有されなかった時代を経て、録音技術が誕生し、音楽は「メディア(媒介)」を通じて所有できるようになり、
さらに今ではもう音楽は「メディア」も必要としないものになりつつある。
ストリーミングで音楽を聴く者にとって、音楽を「所有している」というのは、メディアを持っていることではなく、聞きたい曲の名前を知っている、覚えている、という「記憶」を持っている、ということだ。
そうした時代の変化をBowieのキャリアは覆っている。
今後、過去の音楽はどんな風に再構築されていくのか、「David Bowie Is」展はその一つの先駆的な例になるのかもしれない。
David Bowie // Never Get Old (Official Music Video)